Vol.32 「足るを知る」を考える 村岡 良介



「足るを知る」を考える村岡 良介


 
前回このニュースレターにメッセージを載せる機会をいただいたときは、東日本大震災が発生して4ヶ月ほど経った真夏だった。首都圏では4月に実施された計画停電が、電力需要の如何では再び行われるかもしれないと報道され、節電ムードがピークにあった。当時のメッセージで私は、「今回の計画停電の危機感は、消費者に節電への賛同をもたらし、ムーブメントとなっている。公共の場では照明が間引きされて薄暗くなり、駅の切符販売機は3分の1が貼紙と共に使用を休止し、エスカレーターも2列のうちの1列は停止している。でも苦情は少ないと聞く。結構不自由なくやっていけると、『足るを知る』を知った心境である。」と締めくくっている。

 東日本大震災発生から2年が経過した今、私が「足るを知る」を知った心境となった公共の場は、照明は間引きされているものの、駅の切符の自動販売機もエスカレーターもフル稼働している。独立行政法人国立環境研究所の温室効果ガスインベントリオフィスによれば、2011年度の温室効果ガスの総排出量は、原子力発電に代わって火力発電による電力供給量が増加したために、速報値で対前年度比35%と急上昇している。特に、同じレポートによれば、家庭部門の電気・熱配分後の温室効果ガス排出量(間接排出量)は対前年度比48%と著しく増加している。この要因は、前述したように火力発電の増加による電力排出原単位の悪化であるので、2011年度の家庭部門のエネルギー消費動向を見ないと一概には言えないが、「足る」が物質的な意味であるなら、「本来足りているものを過剰供給している。その過剰供給に浴していた市民が、震災直後は『なんだ、そんなに要らなかったのではないか』と気づいたはずだが、もう忘れている。」と言いたくなるところだ。

 「知足経済」(仏教経済思想のひとつ)という言葉があるが、「知足(ちそく)」という老子の言葉(「現状を満ち足りたものと理解し、不満を持たないこと」(広辞苑))に由来し、「もっと欲しい!」という貪欲の経済を反省して、「足るを知る」ことで過剰な経済活動を自粛するという新しい概念だ。しかし、老子の原文は、「知人者智、自知者明。勝人者有力、自勝者強。知足者富、強行者有志。」であり、下線部分は「(もっているだけのもので) 満足することを知るのが富んでいることであり、自分を励まして行動するものがその志すところを得るのである」(小川環樹訳注)と解されるから、この言葉を聞いて、共感したり、賛同できる人は、そもそも「ある程度満足していて、もういいや」と思えるだけの何かを、すでに持っている人なので、話す相手によっては使い方がとても難しいと思う。

 京都でよく言われる「足る(こと)を知る」は、「吾唯足知(われ ただ たるを しる)」で、竜安寺にある蹲踞(つくばい)に刻まれている言葉として有名であるが、「人は欲張らず、今の自分を大切にしなさい」という意味で、「足る事を知る人は不平不満が無く、心豊かな生活を送ることができる」(竜安寺)ということのようだ。

 言葉の解釈はこれくらいにして、私には京都のこの「足る(こと)を知る」の方が素直に意味が伝わってくるような気がする。「今こうしている当たり前に生きて、生活していることの有り難さ」という言葉も震災後は特によく耳にするが、この言葉に相通じるのではないだろうか。「心豊かに生活するため」に「足る事を知る」とは、個人的な懸念を超えた「本質的な」価値であり、物質的な充足感、あえて言うなら金銭的なメリットといった「非本質的な」価値観から脱却して、今、こうして当たり前のことかもしれないけれど、平和に、穏やかに、健やかに生活しているという本物の良さ、満足感や充足感を言っているように思う。それこそが「本質を極める」ことだと考えると、これは大変奥深いことだと思う。

 私たちが取り組んでいる3Rを推進し、低炭素社会を実現するために、私たちにあるいは自分に何ができるか、生活や地域や職場において何をすべきか、これを明快に答えることは難しい。しかし、自らがその実践に臨むとき、自然や社会や環境に対する責任や配慮を、自らの生活や様々な活動の中に不可分なものとして一体化することによって、「本質」が理解できて、自ずと個人個人の行動が見えてくるのではないだろうか。その先にある持続可能な発展を目指すためのヒントが縷々あるようで、肩の力が抜けてワクワクしてくるのは私だけだろうか。







村岡 良介






【プロフィール】

村岡 良介

一般財団法人日本環境衛生センター研修広報部次長
環境カウンセラー、省エネルギー普及指導員、自然観察指導員
3R・低炭素社会検定運営委員・実行委員
1956年、神奈川県川崎市生まれ、横浜市在住

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