Vol.40 ふつうのこと  有次 寺久保進一朗


「ふつうのこと」 有次 寺久保進一朗


庖丁をお客様に販売する。その際、店では、日々のお世話と共に研ぐこともお願いしております。お客様自ら、庖丁を研いで頂くのですから、その方法をもお伝えするのが庖丁屋の責任と感じ、昭和五十六年に今の錦店に移って来たのをきっかけに、店の二階で「庖丁の研ぎ教室」を始めさせて頂きました。

それは、職人が云った『永く使える庖丁は地球の資源を守っているんやで、毎日、汚れて真っ黒になりながらも、今日より明日、明日より明後日と少しでも良いものを作っていかなあかん。そして、二十年位、経ってから
「おまえの作ったもんは、少しはましやな」と、この声を聞くことを夢みて鍛冶屋やってるんや』この言葉が発端で、庖丁が刃物としての命がある限り最後まで使ってやってほしい、そして、そのお手伝いをさせて頂きたいという思いで教室を続けています。

庖丁を研ぐという事は、刃先を減らして新しい切れ味を引きだすことですが、庖丁はだんだんと細く短くなっていきます。
ただ、自らが庖丁に「ありがとう」と感謝の想いで研ぐならば、日ごろから無茶な使い方はしなくなるでしょう。そして、庖丁と正しく接するならばその寿命を延ばすことに繋がります。ましてや柄が汚れていたり、錆が出てしまうということは無くなります。

大切な命を守る日々の食事、その家の庖丁が美しければ、まな板もその周辺もお世話が行き届いていることでしょう。そんな環境の中では子供たちはすくすく育っていきます。
昭和中頃までなら、何処の家庭もこんな風景の中に元気な子供たちが居ました。
けれど今は、どこかで間違ってしまったのでしょうね。

では、実際に研いでみましょう。
 砥石は充分に水を含ませ、黒いドロが出るように庖丁を交わせ、立たせ、正しい角度で力を加減しながら前へ前へと滑らせましょう。左右の指先に体重が伝わるように前傾の姿勢を取ります。腹式呼吸での息づかいができると、自分なりにリズムを作ることができます。両肘を上げないようにすると懐が広くなって肩に無駄な力が入らず、自然な動作で研ぐことができます。


「庖丁さん、これで良いか」と語りかけるような気持ちを持つことで、きっと道具(刃物)も応えてくれるものです。愛着も湧きます。
この一連の庖丁を研ぐという動作・姿勢は他のあらゆる所作にも通じていると思います。例えば、庖丁の柄を握る、その握り手の小指をしっかりと意識する。ものを握る時の基本です。これは歩いている時でも実践できる動作です。研ぐ時の基本姿勢で腰を決め背筋を伸ばすことは、大切な食事を頂く時の姿勢の基本と同じです。それは食事を作ってくれた人への礼儀なのです。

食事の時、脚を組みながら、極端なのは肘をつきながら、何とも情けないではないでしょうか。残さず、感謝して食事を頂きたいものです。
「庖丁を研ぐ」ことは、つまり「心を研ぐ」ことと同じかもしれません。ものを大切に使い感謝することは、人をそして自分をも大切にすることに繋がっています。
こんな「ふつうの事」を今思っています。





  寺久保進一郎





【プロフィール】

寺久保進一朗(てらくぼ しんいちろう)

1939年、6月15日京都市に生まれる。
1956年、有次18代目として家業を受継ぐ。
1981年、「京都の台所」として知られる錦市場に営業店を移転する。

「よい道具は、人を育て、しあわせにする」が信条。
また、錦市場への恩返しをとの想いから、錦店にて「研ぎ教室」「料理教室」
などを開講する。

現在、株式会社 有次 代表取締役社長。

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